昭和43年5月19日 夜の御理解 (末永信太郎)
お道の信心をさせて頂く人達が、よくこんなことを言う。初めの間は良うおかげを受けよりましたのに、この頃はちっともおかげを受けんようになりましたち。初めの間は良うおかげを頂きよりましたのに、この頃はちっともおかげ頂かんようになった。そんなはずがあろうはずはないですわね。
そんなはずはないのだけれども、こちらの受け心が駄目だから、その後の信心が駄目だから、おかげが頂けんようになって来るのです。ここんところをね、一つのおかげを頂かせてもらわにゃいけません。おかげを受けたら神心となりて、それを人へ伝えて行くのが神へのお礼と仰る。そのけっきょく、お礼心が足りんからと、私はいわゆる、感謝の心がないから、ね、おかげと思うとったんだけれども、皆それを段々おかげと思わなくなって来る。ね。はあ、本当に広大なおかげを頂いて有り難いと言いよるけれども、それが段々といつの間にか薄いものになってしまう。
そこに、私はおかげの受けられなくなって行く元があるんじゃないかと、こう思うですね。あの、熊という動物がおりますね。これは、なかなか、魚釣るとが名人だ、と。あれ、どうして魚とるだろうかと思うけど、やはりですね、あの、とにかく、よくその、魚をとるそうです。そして、こう、笹にね、よくあんな絵がありますよ。熊が笹に魚をこう、さすんですね。そしてから、かろうて帰ります、山に。だいぶん魚とったと思うてから、それで山に帰った時には、もう魚が一匹もついていなかったち。ね。
締めくくりの悪い人のことを熊のようだという風に言うのも、そういう訳なんです。たしかに、その、おかげを頂くことだけは頂く、そのまあ、名人でもです、それが一つもその、おかげと言うかね、その、いよいよ有り難いものになっていないということ。ね。
おかげは受けるけれども、それが実にも花にもなっていないて。ね、そういうことじゃつまらんですからね。それでは神様もお嘆きだ、私どもも馬鹿らしか、と。そこで、私どもは、そこんところの信心を一つ本気でさせてもろうて、本気で私は御教えに取り組ませてもろうて、日々が信心生活が出けおる、有り難いとこう、朝の清々しさ、昼の忙しさ、夜の有り難さというような日々でなからなきゃ、いわゆる信心生活がそこに出来なければ駄目。ただお願いをしておかげを頂いて、いかに頂いたようであっても、そのおかげはいつの間にか漏れてしまっておる。して、また旧の木阿弥。またお願いがある、またお参りをする、また頂くけれども、また、そうして行くうちに段々おかげも良う頂かんようになる。
初めの間は良うおかげを受けておったけれども、この頃はおかげを受けんようになった。そこで私は思うんですけれどもね、私はあの、今日はそのことを頂いてから、どのような信心をさせて頂いたら、そういう神様をガッカリさせることもない、自分自身も有り難いことになって来るだろうかと思わせてもらいよったらね、あの、いわゆる、あのお手洗いの横には、この南天がこう植えてありましょうが、どこも。ああいう情景を頂くですね。それはどういうことかと言うと、お手洗いの(きんぎょ?)というのは誰でも嫌なもんですよね、臭い所ですから。ね。けれどもね、あの南天がその、いつも生き生きと青々としておる。ね。
もう冬の頃にでもなると、真っ赤な実をつける。ね。それに、雪が積もる。もう、それ、あの、南天に赤い実がなって、それにその、雪でもこう積もっておる風情というものは、また、何とも言えん良い風情なものなんです。そういう在り方になれということ。ね。例えば、その、何と言うですかね。向こうが向こうだから、こっちもこっちといったような気持ちじゃいけないて。ね。向こうは向こうでも、こちらはこちらでちゃっと信心になって行かなきゃいけないということなん。
場合には、恥ずかしい思いをすることがあるかも知れん。場合には、腹立てるような思いがあるかも知れん。ね。または、思いもかけない疑いをかけられるようなことがあるかも知れん。ね。それでもです、もう、そこに色を変えるようなことでは、おかげにはならんです。南天のいつも生き生きと、青々としとかんならん。ね。恥ずかしい思いをするなら、嫌な思いをするなら、ね、心にもないことを疑われたりすんなら、その思いを神様へ持って行きゃいいのです、日々が。
例えて言うならね、例はたくさんありましょう。どのような場合でも御取次を頂いて、して自分の心にもいつも色をも変えぬ色は南天の葉のように。または、真っ赤な実のように、いや、雪が降ってもかえってそれが風情であるような生き方、在り方にならせて頂くということに精進するんです。
そういう精進が、信心だ。ね、よか時ばっかりが信心じゃない、お願いすることだけが信心じゃない。信心というのは、どのような場合でも心が治められれるけいこなのだ。あの人がそげなことを言いなさったですか、て言うて腹立てとったら、もう信心じゃない。ね。私がいつ、そんなことしましたか、と言うてムキになった腹が立ったら、もう信心のある者の姿じゃない。
それこそ、神様だけがご承知の世界に生き抜くことなんです、信心とは。神様が見ておいでなのだ、神様がご承知なのだからと、生神金光大神を唱えさせて頂きながら、そこんところを、それこそ色も変えんで済むような、私はけいこをするということ。ただ、おかげを頂くことだけが信心のように思うておったんじゃ間違いである。ね。どのような場合でも、ね、驚かんで済む。または、どのような場合でも、それこそ色も変えんで済むようなです、そういう在り方にならせて頂くためにお互いが信心のけいこを常日頃させて頂くのである。そこに、信心の値打ちがある。お願いをする、おかげを頂く、これは値打ちじゃない。
ね、それは放っときゃ、またの旧の木阿弥に戻ってしまうです、そういうおかげは。それは、ちょうど熊の魚とりのようなもんなんだ。ね。熊がたくさん魚とったと思うて、おかげ頂いたと思いよるけれども、さあ、家に帰ってる時には、もう一匹も魚はなかったといったような結果になってはつまらんでしょう。ね。
いよいよ、おかげがおかげになり、いよいよ、おかげにおかげの花が咲いて行くような日々。だから、有り難い、勿体無いという信心生活がいよいよ出けるのです。それには、その、引当てと言うか、そこに信心生活がね、なされるけいこをせにゃいかん。信心生活という風に、今、私が申しましたように、便所の横にある南天のような在り方にならにゃいかん。ね。こんなとこは臭いから嫌なんて言うちゃならん。臭くても、ちゃんと辛抱出けれ、ね、いわゆる生き生きと、青々と、言うならば、朝のすがすがしさ、ね、朝早起きをする、朝参りをする。その清々しさを持って生活の中に入って行かにゃいかん。
朝の有り難さが、一日のいわば、きつい仕事でも、ね、はあ、おかげを頂いて今日もお使い回しを頂いて有り難いということになる。ね。一日、一生懸命御用にお使い回しを頂いて、お風呂にでも入り、夕飯でもつませて頂いて、御神前に額づかせて頂く時に、本当に神様、今日もきついことでした。今日は例えば、腹の立つ日でございました。今日は本当に恥ずかしい思いも致しました。今日は、あられぬ、こういうような疑いをかけられるようなこともございましたけれども、ね、朝の清々しさ、あの信心を一日持ち続けることが出来まして、生神金光大神様、生神金光大神様で今日一日もすごさせて頂くことが出けました。
本当におかげを頂いて有り難うございます、といったような一日でなからにゃならない。そういう一日が繰り返されて行く時にね、おかげが、もう次の力になり、徳にならんはずはない。信心は徳を受けなければつまらん。信心はお徳を頂くことが、だから目的だということになる、おかげじゃないて。ね。
そういう在り方の上には、もう限りのないおかげが約束される、おかげを頂かれる。それが、金光様の御信心なんです。悲しい時の神頼みから、みんなが信心に入ります。そして、そこから、ね、祈念祈祷で助かるのではない、話を聞いて助かると仰る話を聞く。その話が、どういう話かと言うと、今、私が中に申しました、南天の木のような在り方になることを話によって頂くのです。ね。
だから、立派なやはり、その南天のような信心が出ける。そこに徳を受ける、力が受けられる。ね。とりわけ私は思うんですけれどもね、南天のお知らせを下さったのは、どういうことだろうかと私は思うた。これは、取次者に対することだと、私は思ったですね。この御結界は勿体無いことだけれども、便所と同じだと仰る、共同便所と同じことと仰る。
皆がかけ込んで、先生どうしましょうかあ、と。先生、こんなに難儀な問題が起こりました、と。ね。先生、実は今日はこういう苦しいことでお願いに参りましたと言うて、お願いに来るとそれがスッキリする。心配しなさんな、と言われたら、もうそれで安心が出ける。ああ、それはこういう訳じゃ、と御理解を頂いたら、自分の心を撫で下ろしすることも出ける。何とはなしに、胸がいっぱいだったけれども、お参りをさせて頂いたら、心が軽うなる。
ちょうど、ずう苦しい時にお便所に行ってから、スキッとするようなもんなんだ。だから、勿体無いことだけれども、御結界という所は便所と同じことだと仰る。しかも、共同便所のようなもんじゃと仰る。そういう、例えば御取次をさせて頂くのが、取次者の役目である。その取次者自身がです、ね、いつも赤こうなったり、青うなったりしよったんじゃおかげは頂かれんでしょうが。
どういう難儀な問題を信者が持って来るじゃら分からん。いつでも、どんな場合でも色さえ変えんで済むような在り方になっておらなければ、良い御取次は出来るこっじゃない。ね。だから、ははあ、この、ここがお便所であるなら、ここには南天が、ここに植わっておるようなものです、ね。だから、本当に取次者はいつも、その南天の木のような在り方で在らなければならないということ。
いつも心を治めて、いつも神様の絶対の働きを信じて、どのような場合でも、色も変えん。いや、むしろ、それに難儀が積もれば積もるほど、ね、それに雪が積もれば積もるほど、かえって素晴らしい風情が出るような在り方にならなければならないということであると、こう思うた。ね。そして、最近のここで頂く御理解を思うのです。ね。もう、ここ信者全員が取次者という御理解を頂いております。ね。
お互いが、現在合楽で言われておるところの信心を身に付けて、ね、もう自分一人の神様じゃない。どうぞ、私が改まりますから、磨きますから、こういうおかげを頂かせて下さいというのではなくて。ね、人の難儀が助かることのために、ね、人の難儀が助かることのために、磨き革まれ。お参りも人のために、例えて言うならば、教会大発展のために、あなた方が修行をするというような信心になれ。
天地書附でも、生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり。さあ、おかげ頂かにゃ、おかげ頂かにゃならんから、和賀心になることに勤めにゃいかん。どうぞ、今月今日只今、私の心の上に和賀心、和らぎ賀ぶ心にならせて下されいと言うて願うておった。
けれども、もう、そういう信心だけじゃいかん。どうぞ私の心の上に、一心に和らぎ賀ぶ心を頂かせて下されい。ね。そして、分からない信心の分からないあの人も助けて下さい、この人の難儀も助けて下さいと言うて、人の難儀が助けられるために、自分が改まって行くのだ。言うなら、もう全員、全信者が取次者なのだ、いわば。ね。御結界にこそ座ってないけども、もう、あなた方のおる場、現場がもう御結界なのです。そして、そこに難儀を見たならば、難儀を感じたならば。また、難儀なことを聞いたならば。ね。
取次者としての、はあ、ここに、こういう気の毒な人があります。どうぞ助けてやって下されい。修行を私が致しますから、(・・・・・・・・・・・・テープが切れる・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
神の子としてです、神の氏子としての見方なんです。して見ると、例えば、これは親であろうが兄弟であろうが、主人であろうが従業員であろうがですね、ね、年をとっておろうが若かろうがですね、同じなんだ、と。ね、例えて言うならば、なら、私とここの久保山茂さんが、まあ、年が20ぐらい違いますかも知れん。けれども、それはね、二十年間、私が早く生まれたというだけなんだ。ね。
どこに値打ちが違う、20年間、早く生まれたというだけじゃないか。ね。というような見方、考え方を持ってです、ね、とりわけ、今日は人やら物やら、金やらも同じことなんですよ。けども、とりわけ今日はですね、そこんところを教祖が仰る。人を軽う見なと仰るようなですね、人を平等の見方、神の氏子としての取り扱い。ね。そういう私どもは、ところが今まで、私どもはかつてですね、なら、軽う見て来た人がある。または、重く見て来た人がある。そういうところをです、甘木の親先生じゃないけれども、1円の金を自分が使う時には、ね、百円のお金でも使いよるごたる気持ちでといったような、まあ、一つの考え方、方法があると思うんですね。ね。
とりわけ、そこんところを大事にさせてもらってですね、おかげを頂いて行かなければならんと思うのです。疑いを去りて信心してみよ、みかげはわが心にありという、この信心の心得をです、今日はその疑いということをね、御取次を頂く、いや、取次者。または、取次者が言われる、ね、それが教話である場合にも、御取次を願ってそれに対するお答えに対しましても。ね。そこんところを、私はあの、信じるというのは、そこんところに焦点をおいて信じさせて頂くけいこをさせてもらわなきゃならない。ね。
同時に、そこから出て来るところのお話を、今日は私は平等ということについて、皆さんに聞いてもらったんですね。全てのことですけれども、とりわけ、人間のことにつきましての考え方、見方、頂き方をです、平等な頂き方させて頂くところに焦点を置いて、今日、信心のけいこをさせて頂いたわけですね。
お互いが、こうして日々信心のけいこをさせて頂いておるが、ね、自分のものになっているものと、こう、開き直って聞かれる、開き直って答えられるというものが何があるか、と。
実を言うたら、あれも上がっていない、これも上がっていない。どれも中途半端というな事じゃなくて、一つひとつをです、自分のものにして行けれる、私は精進、努力こそが大事だ、と。もう、御取次を頂くということが、どんなに有り難いことか。ね。御取次の先生の仰ったことをです、ね、信じさせて頂ける。これだけは、私のものになっておるというようなですね、おかげを頂くことが、先ず金光教の信心の、先ず手始めだという風に思うんですよね。どうぞ。